DIE DORAUS UND DIE MARINAS "Blumen Und Narzissen" '81

 これさえ取り上げればこのブログの基本姿勢、ひいてはオイラという人間の『軽音楽』という「表現芸術」あるいは「商品」に対する意識を分かってもらえるかもしれません。
 僕ももちろん好きなレコードというのは(無駄に)いっぱいあるのですが、それらが「とても良い曲が入っている」とか「全体の雰囲気がすばらしい、ジャケも」とか「いつ聴いても刺激的で血が騒ぐ」とか「癒される(幻想である可能性を意識しつつも)」とかいう月並みな理由でお気に入りであるのに対して、ドーラウのこの盤の魅力と言うのはそういうところじゃないんですよね、むしろそれらの要素全てをふくみつつ、+α、得体の知れない+αを感じています。聴くたびに「ポップ(通俗性、通俗という意味、価値)ってなに?」という疑問を激しく突き付けられているような気がするんです。
 その突き付けられる疑問によって、自分のポップ(軽音楽)に対する意識、価値観が根本から揺さぶられます、好きだった音楽が「ほんとは好きじゃないのかも、なくても一向困らないモノなのかも」とか思えたり、ぼんやり聴くだけじゃなくて、もっと「ポップ」のコトをちゃんと考えなきゃいけないなとか、普遍的な「ポップ」でなく、自分にとっての「個人的なポップ観」を意識し続けないと、だらだら意味もなく中古レコードを買う事になる=芸術や美に触れているのではなく、ただ商品を消費しているだけ、ストレス発散の買い物のようなコトを無意識に続けるコトで「自分は音楽に触れている」と勘違いしているのでは・・・と考えさせられるのです。自分にとっての『対芸術・意識拡張装置』なのです(笑)。
 作家、高橋源一郎氏が自身のデビュー前後のエッセイや小説を「言葉の(言葉をつかうというコトの)リハビリである」と語っていますが、ドーラウの作品にも似たなにかを感じます。一つの言葉(音)を発し、小説(音楽)という空間に重力が生まれ、その重力が、発せられた先の言葉を再定義し、次の言葉を待つ瑞々しい瞬間、表現がよちよち歩きするわくわくする瞬間。そういう表現の現場の生々しい「作者対作品」という切実で切羽詰まった関係性を感じれるところ、そしてなにより出来上がった「作品」がむちゃくちゃチャーミングなところが、源ちゃんもドーラウも最高なのですよ〜
 ぼか〜シャグスより、こっち!