がじゅクンへ

 僕も「意味」「無意味」のコトが整理出来てるわけじゃ無いので、一緒に考えてくれたら幸いです(笑)。
 自分の好きなモノって大体コトバに変換するコトが出来ると思うのです。コトバに置き換えれた時点で、その人なりの消化があって、その人にとっての「価値」が生まれたり・・・。でもドーラウの良さって、「ポップ」とか「イノセント」とか「軽さ(ポップの文脈みたいなモノからの漂離)」なんて切れ切れのコトバは浮かぶけど、自分にとっては、ぜんぜんそれでは足りないんですよね。「好き」なんだけど、その音から得る「思い」みたいなモノが、どうにもコトバにならないので、未だにこんなにもこだわって、引きずってしまっているのでしょうネ。そこが「特別」にかんじているトコロです。
 たとえば、もっとも「音楽」らしい「音楽」、「音楽」が「音楽」たるゆえん、表現性の高い「音楽」というのは、「コトバ」に置き換えられない「音楽」なのかもしれませんネ。そうなると僕にとって「音楽」らしい「音楽」とはドーラウになってしまって、トホホ・・・となります。でも僕が学校で学んだ、質の高い「芸術」とか「表現」って、視覚芸術でも音楽でも文学でも、その形式でしか表現出来ない事を表現するってコトなんだけどな・・・。簡単に消費できたり、コトバで代わりのきく絵画を観に、何度も美術館に足を運ばないよネ。
 厳密な意味での「無意味」「無価値」は無いわけだし、人間が観たり触れたり思ったり、認識できた時点で「意味」「価値」「重さ」は生まれてしまうコトも分かります。「無意味」も一つの「意味」なわけだから、意味から逃げられないのは分かります。でもドーラウに触れていると、より「意味・価値・重さ」を求められるこの世の中(普段の無意識の自分も)で、つかの間、「なにか無意味」な何かを想起できたり、「無意味」のコトを考えたり出来る、「無意味」の方を向いていられる、というか・・・。
 もうオツムが限界なんで、またこのことは放っとくコトにしますヨ(笑)。

 NWは僕もそんなに聴かないのですが、ないとダメですね。非日常というか、個人的な(純粋消費みたいな意味の)「祭」だと思います(笑)。感覚がなにかリセットされるトコロがあるので。バカテクのジャズでも、アホらしいくらいファンキーな黒人音楽でも、イっちゃってるアイドル歌謡でも・・・そんな作用はあるように感じますが。
 それから「野良レコ」は最高のフレーズですね(笑)。結局僕も(頭がかたいクセに)直感人間なので、こういう一言には大いに触発されますヨ。