自由が歩いていた

takaoxida2007-06-18

 こうして、ぐんにゃりと一日の終わり。


 やっと、なんの役にも立たない日記に向かえる、幸せな時間がやってきた。
 あーだこーだと追っかけてくる、生きるための義務とかいうクソ有意義なあれやこれやが、めんどくさくてしょうがない。おれのコトなんて、放っておきやがれ。

 やってもやらなくてもOK。誰にも無関係で、どーでもイイ物事。ただそれに向かう時だけ、真心と誠意を持って臨むコトができる。


 昼下がり。昼食を終えて、ひとり会社へだらだらと歩いていた。川沿いの道と平行に走る、うらぶれた商店街の終わり。ただ無駄に太陽が道路やそこいらを照りつけていた。無駄に暑く、ただ無駄にまぶしいだけの、どうでもイイ(無駄な)午後だった。


 そこでカゼッタ岡に会った。


 会社のカニコさんも言っていたのだ。この辺にカゼッタ岡が住んでいるらしく、よく目撃するというコトを。



 


 カゼッタ岡は、とても普通に歩いていた。普通に麦藁帽、ジーパンだった。とても普通にズタ袋を背負い。とても普通によろよろと、太陽の下を歩いて行くのだった。
 普通に自販で買い物をし、普通に家路に向かう様子だった。
 カゼッタ岡は普通に(完全に)自由だった。普通に(完全に)自由に見えた。

 カミュの『異邦人』の情景が思い出された。(←これは完璧にデマカセです)


 少なくとも、自分よりか、完璧に自由だと思った。これが、カゼッタ岡を見た(率直な)感想だった。
 『自由』というコトが、どういうことか。『自由』というコトを、あまり考えたコトはないが、カゼッタ岡を見たら「ああ、あんなふうに、自由が歩いて行くんだな」と思った。