笹塚くんだり



 柄谷行人氏は『日本近代文学の起源』の中の「児童の発見」という章で、近代的な児童文学は小川未明の頃に成立したが、「そこにある児童は大人によって考えられた児童であって、まだ『真の子供』ではない」という通説に対して、「真の子供」など存在しないのではないかと書いています。「風景」や「内面」が、じつはもとからあったのではなく、近代文学の成立とともに「つくり出された」ように、「児童」も子供と大人の分割の必要性から生み出された仮構の存在なのです。



 というG一郎先生の文章を読んでいて、「風景」のコトを考えていた。
 ワタスらが受けた国語教育のせい? ワタス達はあたかも最初から自分の「内面」があるもんだと錯覚して暮しているが、近代文学が描き、テーマとしたことで、初めて「内面」というアレが発見されたちゅーことよね。
 (ぼけーーとしてるクセに)まず初めに「内面」があって、その「内面」から表現や行動が生まれると思ってるが、違うちゅーことよね。ゲージツやら国語教育のせいで、そー思わされている(分かりやすくて、手っ取り早いから?)ちゅーことよね?

 風景といえば、ワケありなアレを気にするようになってから、散歩は勿論、移動中の車窓から見える風景を、すごい集中力で真剣に観るようになったんだ。「真剣」というのは曖昧か。「目的を持って」「(自分が)観たい風景を観る」ようになったんだ。
 今まで自分が観てた「風景」ってなんだったんだろう。ほとんどが消極的で受動的な入力だったし、勿論、意志や熱意を持ってあたるようなアレもなかった。極端に言えば、何かを感じてたのは、気のせいというか、「風景を観て何かを感じている」と思わされて来たんだろーね。「風景に触れたら、人は何かを感じます」って教わったアレを、丸っきり疑わなかったっていうアレなんだろーね。滝壷中年は、31にして、ようやく自分の「風景」を発見したんだろうか?。(ようやく「風景」の端っこに触れたというか) 「単に目に入ってくる風景が『風景』」なのではなく、「風景」って、各人が勝手に見つけだしてくモンなのかしら? ・・・みたいなコトをつらつら考えてたんダス。

 たまに、中国の食品なんたらがアレとか、アメリカのハンバーガーがアレとか言う人がいるけど、アタスは食べ物より、人の「知覚」とか「認識」に関する人工添加物的なアレのほうが、アレですわ。
 まー「知覚」や「認識」がアレでも、死にゃーしないからイイのかね☆