モヤモヤの浸透膜



東風(紙ジャケット仕様)
 モヤモヤの『東風』を聴きながら。

 自分が面白く聴こえるところについていろいろ考えてるんだけど、うまく書けない。「メッセージソングみたいな体裁の歌詞の陳腐さ*1」と「アシッドな感触、蠢惑的な曲と演奏」の対比が面白いなーと思うんだけど、その二つがどーいう関係性で、どー互いに影響して面白くなってるのか・・・うまく書けない。でもなんとなく、そのへんが面白いような気がする。その辺を中心に考えてる。
 ちなみに歌詞はともやさんではなく、別の方。それから、ともやさんの歌い方は(イメージどおり)、歌を歌うような歌い方ではなく、相変わらずメッセージを語るような歌い方なんだと思う。そこに浮き世離れしてるというか、純度が高いというか、とても音楽的な(感じがする)宇野なんちゃらさんの曲が合体するこの違和感というか、心地よい摩擦。
 そこが素敵な感じがする。

 「バースだかなんだったか、誰かポストモダンの作家がマンガのキャラを主人公に小説を書いた。(誰にも自明の)虚構の存在が小説という虚構の空間で繰り広げるなんちゃらが、返ってなんちゃらかんちゃらで、それはなんちゃらかんちゃら、悲劇的ななんちゃらを帯びていた。」

 これは源ちゃんの言葉のうろ覚えなんだけど(どんだけうろ覚えだよ)、これの「マンガのキャラ」ってモチーフを、東風の場合「メッセージソングの陳腐さ」と置き換えると、なんとなく自分的にしっくりくるような気もする。
 (ひょっこりなんちゃら島等で知られる)宇野なんちゃらさんの曲が、すごく面白いので、メッセージソングっぽい体裁の歌詞の陳腐さ、どうでもよさが余計強化され、ひっくり返り、本来のメッセージとは、どこか無関係な方向にぶっとんでいる。そういう異化作用みたいなのの面白さ?

 ついでに、

 「小説は、詩(げーじつ)の言葉の世界と、現実(生活)の言葉の世界の間で、浸透膜のような作用(双方向の行き来を促す)をする。芸術の言葉 対 現実の言葉。そこに小説という方法のいろんな可能性がなんちゃらかんちゃら」

 これも源ちゃんなんだけどw(ちゃんと覚えろよ) 陳腐なメッセージソング然としたメッセージ(現実の言葉) 対 宇野なんちゃらさんの音楽(的語彙(げーじつの言葉))って置き換えると、これもなんかしっくりくるような。
 と考えると、このアルバムで聴ける曲たちはワタスにとって、現実の世界とげーじつの世界の間の浸透膜のようなポップスと捉えるコトも出来るのかしら?

 あーだんだんめんどくさくなってきたー。疲れてこれ以上考えられん。でも
このアルバム(の気に入ったところ)を考えるのって、なんとなく自分のポップ観を改めて見つめ直させてくれるような感じがして、大切な気もした。そーゆーポップスってあんまないと思うし、だいたいは、考える前に音楽に飽きる。その点、このアルバムは、こっちをすごく集中させてくれるところがあると思った。(まーそれが謎で、気になってて、考えたいトコロなんだけど)
 これを聴いて気に入っちゃった人は、どこがどーいいのか考えたら面白いと思うし、なんか分ったら、アタスにも教えてほしいでげす。

*1:プライベートな内容の歌詞はアンタの勝手だから気にならないけど、メッセージソング然としてたり、他人を巻き込もうとしたいんだけど、こっちとしては全然巻き込まれない歌詞、そーゆーのは陳腐だなーと感じます。