t子堂


オストデカッ

 今日もつるつると気持ちがすべる真夜中。
 とりあえず週末の岸辺。
 つるつるするので、とりあえず備忘用に。

 田んぼの昼時。ひかれるままに路地に吸い込まれていくと、林芙美子が貧しい時期を暮した長家、とかいうのを見つけた。
 いろいろググる。「泥沼に浮いた船」ってすごいな☆
 m宿の葛西善蔵といい、ますますこの界隈に愛着が湧いた。
 今度思いきって地元のお年寄りに、葛西が住んでたトコを聞いてみようかしら?

 つるつる。


 無名時代の林芙美子の生活の記録『放浪紀』が出版されたのは、昭和5年のこと。その中に、20才の芙美子が大正14年(1925)、新進詩人の野村吉哉と共に太子堂で過ごした日々が描かれている。貧乏のどん底で、結核を患った野村との生活は、不幸なものであった。 「・・・・・・泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私たちの長屋だろう。兵営の屍室と墓と病院と、安カフェーに組まれたこの太子堂の暗い家にもあきあきしてしまった」。  当時、隣には壷井繁治・栄の夫婦が住んでおり、近くには平林たい子政治活動家の飯田徳太郎と同棲していた。またプロレタリア作家の黒島伝治、前田河広一郎とも親交を探めている。皆貧しく、女達はわずかな米を分けあったり、男連は連れだってたけのこ泥棒に出かけたりする生活だった。〜後略

 この安カフェの近くには烏山川北のり面からの支流が流れ込んでいた。そこには尾根筋にある近衛野兵砲連隊などの厩舎からの屎尿が流れていたという。地元では兵舎を「兵隊屋敷」と呼んでいたようだ。そこからもこの安カフェに兵隊たちが来ていたろう。太子堂には硝煙が臭っていた。芙美子の長屋の向こうも陸軍病院だった。〜後略

六月×日  前の屍室に、今夜は青い灯がついている。又兵隊さんが一人死んだ。  青い窓の灯を横ぎって、通夜する兵隊さんの影が、二ツぼんやりうつっている。 「あら! 蛍が飛んどる。」  井戸端で黒島さんの妻君が、ぼんやり空を見ている。 「ほんとう?」  寝そべっていた私も縁端に出てみたが、もう何も見えなかった。  (林芙美子 「放浪記」 現代日本文学大系69) 往時、長屋の裏手の北は病院の敷地である。そこに遺体安置所があった。東には太子堂円泉寺の墓地がある。死と隣り合った長屋である。が、そこに壺井栄、壺井繁夫妻、黒島伝治林芙美子の夫は野村吉哉という詩人である。この長屋一帯はちょっとした文士ファミリー村である。が、生活は苦しい、お米や味噌の貸し借りをして辛うじて生計を営んでいたようだ。  円泉寺の回りの長屋は文士志望が集まっていた。太子堂は文学漂泊ラインである。どこからか流れてきて住んで、そしてまたどこかへ去ってしまう。彼等は定住者ではなかった。この丘の南のり面を東にたどるとマンドリン弾き語りの放浪詩人永井叔旧居にたどり着く。太子堂漂泊ラインである。ちょうどその道筋をよく通っていたのが詩人の三好達治だ。途中の清水湯にはよく来ていた。湯屋の前にあった柳のことを彼はエッセイに記している。彼もさすらい人である。代田の家を仮寓と呼んでいた。〜後略