ある場合のシミュレーション(深夜)



 某knr先生からメールが来て、返して、また来たる。怒ってないみたいで、よかった。
 「音楽談義をしましょう」と、書いてあった。
 このようなわたしに、そう言ってくれる人がいるのは、うれしい。泣ける。
 どんな風に話せばいいだろう。どんな顔で話せばいいだろう。談義できるのか中年は。音楽を、談義する。その時、どんな音楽(レコード)を、頭に思い浮かべて話せばいいだろう。自分が好きで聴いているレコードの中で、自分は、どれを、音楽だと思っているのだろう。
 ある時から、わたしは、わたしが聴いているのは、「音楽」と、思わないように、するようになった。簡単に、「音楽」と、言わないように、気をつけたり、用心するようになった。私は、音楽のコトを知らないし、知るために、いろいろ、がんばるのも、がんばって、知った気になるのも、めんどくせー。
 一枚のレコードがあって、それから、音が出る、と、だけ、思うようにしている。だから、わたしの中に、音楽はなくなった。レコードと、そこから出る、音が、ある。
 部屋にレコードがいろいろあっても、部屋に、音楽は、ない。部屋のあるじは、わたしだから。
 音楽を、愛すのは、苦しい。音楽を、愛している人を、見ると、苦しそうに、見える。愛には、麻酔効果があって、苦しくても気付かないように、なっている。
 無知な自分を自覚すること、そして、これからも無知でい続けること。そうやって、音楽と、自由で、いよう。音楽がなくても生きていける。気まぐれで、明日から、死ぬまで、音楽を聴かない、可能性だってある。わたしが、そういう気分の時だけ、音楽が、ある。 そんくらいの、気分でいよう。
 「自分は、音楽が、好き」
 そう思うことが、自由を奪う、第一歩だ。愛の麻酔の、始まりなんだ。



 近頃、枕のそばに置いてあるのが、土屋アンナの自伝的エッセイ『踊念仏』。