爆発のこと

 くもり。さむい。
 田んぼが爆発五郎。怒り狂って夜までタガヤス。
 おつかれポンちゃん
 夕方。くるくる相談所からブツが届く。うっひゃー。

 よる。地主と面談。
 理不尽な耕作でも、怒っちゃイヤンとのこと。
 スミマセンね。でも、水飲百姓が独り怒ったところで、別になんてこたーないでがしょ。
 夜中。帰宅。おつかれポンちゃん
 ぐにゃっとしつつ、くるくるを聴いてみる。泣けるっ。
 泣けるポンちゃん

 そういえば、ぴゅー先生が「鰤っ」というくるくるしたコミュを作った。
 おもしろそうポンちゃん

 爆発五郎やなんちゃらパイソンを眺めつつ、
 なぜ、人は爆発に魅かれるのかをぼんやり考える。
 ぼんやり考えるポンちゃん







 純粋消費 戦争と祭 社会の痙攣 ロジェ・カイヨワ

 (略)・・・最後の戦争に関してであるが、よくいわれているナポレオンによる近代国家のための国民皆兵、その結果としての総力戦という特徴を下敷きにしながら、非日常空間である「祭」に通じる部分を戦争に求め、その共通部分をそこでの聖性とする議論を展開している。ここで私が関心を持ったのは以前に読んだロレンスの 『現代人は愛しうるか』 で掲げられていた命題、即ち「近代人にとっての全体性を回復する機会」としてカイヨワの説く「戦争」がひとつの回答になっているのではないか――という点だった。なぜなら、カイヨワはそのような聖性ゆえに近代人にとっての戦争は不可避的なものであると述べており、それこそがそのまま近代人の日常には欠けるであろう「全体性を回復する機会」としても一致してくるように感じたからである。

 これについてジョルジュ・バタイユは、あえて次の法則を提示しようとする。「全体として、社会はその存続以上のものを生産し、また常に余剰物を所有している。社会を決定するのは、まさにこれらのつかい方である。余剰物、これこそ動乱の原因であり、構造および全歴史的変化の原因である」。実際、人口的にも経済的にも発展する社会は、その過剰物をどんな用途に向けるかにオリジナリティを発揮する。つまりこうした社会は、みずから欲するままに、これを軍事・宗教・産業・奢侈のどれにも振り向けることができる

http://www.kaimei.org/note/book_out/seinaru.html