Magical Power Mako "フレッシュ・ベジタブル" '81

takaoxida2005-12-20


 もともと『テクノ歌謡』コンピシリーズなんかで音も、(このモーレツな)ジャケットにも触れていたのだが、後年、実際中古レコ屋でこのジャケットを偶然引き抜いた時の感情というのはやはり特別だった(笑)。出合い頭のカウンターパンチ、なにか強烈な負のパワーを放射する異形のep盤。話の分るナイスな諸兄は別として、健全な美的感覚を持った健常者が、皆このジャケに一様に強烈な拒否反応を示すことからも、このアートワークのある種の完成度の高さみたいなモンが十分にうかがえるというものだ(笑)。
 んで内容というのも期待を裏切らない、居住まいちゅーか、強力に座りの悪いふにゃふにゃテクノポップ=最高な歌謡テクノ。
 こういった音楽を単に『観賞に耐えないもの』として無関心で通過できる者は幸いである。そういう方は、もっと精神や心の滋養となる、有意義な人生に有効な音楽のコトだけを考えるコトに集中できる。もちろん僕もそういう有意義な音楽に対する欲求も相当あるのだけれど、本当に有意義な音楽を聴くコトに集中している方からすると、「その欲求は全然切実でない」というコトなのかも知れない。と(なぜか)反省したりもする。

 いつもなんとなく思うんだけど、音楽好きにはおおまか二種類あって、「音楽が分る」から聴きたくなる人と「音楽が分らない」から聴きたくなっちゃう人がいるんじゃないかな? 僕は当然、自信を持って(笑)後者の方で、それでこういったジャケも内容も反意味(?)、意味は無いけどそこにあって、ハリをおけば反意味(のような)音が出てくる・・・素敵! と、そんなモノにどうしようもなく惹き付けられてしまうのだと思う。

 もともとこういったモノも、一昔前で言うモンド感覚ちゅーか、モノ珍しさで愛好していたわけだけど、年を経るにつれ、そういった興味や聴き方もなくなるのかな・・・と思いきや、意に反して、こういったモノが自分にとって重要であるという思いや、考えが年々深まってくるものだから困ったモンである。
 ・・・それはやはり、僕も一応、健常で有意義(と思われる)な音楽をいろいろ聴いていくうちに、なにか「自分は音楽のコトが分ってきたのかな?」なんていう自負やら錯覚に陥るのだけれど、折々ふと我に返って考え直してみると、その度に、果たして「自分に何が分ってるのだろう?」という不安が迫ってくる。音楽をただなんとなく楽しむコトは出来るけど、どうやってもそれ以上「なにか分ったりは出来ない」っちゅー不安や諦念が、結局、無意味なレコードの自由な世界へ僕を向かわせるのではないかな?
 だいたいマトモちゅーか、健全な音楽を聴いている時の自分てのは、例えば、それをとても楽しんでる人格Aがいて、その人格Aは「音楽っていいなァ」「もっとこういう素晴らしい音楽を聴きたいなァ」なんていう素直な奴なんだが、必ず懐疑的で皮肉っぽい人格Bが「おまえに何が分る」「イイと思ってるのは評論や風評のせいで、全くの気のせいなんじゃないか?」と毎度毎度、突っ込んでくるわけである(笑)。どんな素敵な音楽に触れようが、常に自分の中で、少なからずこの人格AとBの相克があるのだが、この『フレッシュ・ベジタブル』やら、ドーラウを聴いている時というのは、人格B の突っ込みがパタリと止み、自分が分裂することなくAとBが一致して、一つの思いで音楽を楽しむコトができる。
 て、またドーラウ話かよ(笑)・・・フレッシュベジタブルの話である。

 これを聴いてると、(高橋)源ちゃんがサドの『ソドム120日』を「あらゆる文学の傑作と呼ばれるモノを横に並べても、その輝きを吸い込んでしまうブラックホール。ゆえにこれは並の傑作以上の傑作。」なんて評していたのを思い出してしまう。こういった音楽を単なる雑音として遮断できる方にとっては「何言ってんの?」てな話だろうが、素敵だったり、傑作といわれる音楽の横に『フレッシュベジタブル』・・・。僕的には充分小さな『ソドム120日』なのである(笑)。どんな素敵な音楽の素晴らしい響きも、そこから感得できる特別な感情も・・・結局「だから何?」という無関心、無感動に追いやられる。『フレッシュ・ベジタブル』は「レコードの形をした穴、真空地帯」なんじゃないか?。
 超高濃度、高質量の『ソドム120日』と軽〜い『フレッシュ・ベジタブル』じゃ、表現としての、様式や意味の比重が全然違うわけだけれども、・・・『フレッシュ・ベジタブル』みたいな音楽を喜んでリピートして聴いてると、まともで、優美な音楽の聴き方が分らなくなりますね(笑)。ピント調整の壊れたカメラのように、なにか焦点が合わなくなるような・・・。恐ろしい効能を持った音楽だと思いますよ、実際。