ヨドバシ


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 また、だらりとした今宵です。
 やけに喉が乾く。冷蔵庫を見たら梅酒しか入ってなかったので、それをがぶ飲みする。そしたら酔っぱらいました。
 今日もおおむね、気分は落ちくぼみ☆tonightなワケなんです。やってらんねーヅラ。今日も新宿のはずれの、やるせない風景をお届けいたします。
 左に淀橋変電所、右手に新宿少年センターという、この通り(十二社通りとかいうらしい?)。どこか間の抜けた殺風景な雰囲気で、歩いていると、いつもなんとも言えない気分になる。とくに夕暮れ時のもの哀しさは格別だ。
 中央の人物は、カメラを抱えてうろつく若者。なんとも挙動不信。ワタスも端かりゃ見りゃこーかとw。人のフリ見て我がフリなんちゃら(もはや☆手遅れ)。
 「なーんか、遠くの方からサザンの『ツナミ』が聴こえて来んな〜」と思ったら、自転車に乗って熱唱する系の人だった。たまにいますね。ツナミはカメラを構えるワタスの肩ごしをかすめて行った。その走り去る姿が、カメラ若人の右。
 淀橋近辺も河川氾濫の水害がアレなトコだったらしいが、ツナミとはねー。




 淀橋はかつて「姿見ず橋」「面影橋」と呼ばれていたそうだよ。今日もおのが散歩にまつわる不吉な影追って、中年ががさごそする。

 淀橋はかつて「姿見ず橋」の名で呼ばれていた。その由来は遠く室町時代にさかのぼる。
 当時、この界隈には中野を開拓して巨万の富を築き、中野長者と呼ばれた鈴木九郎という人物がいた。彼は財産を武蔵野の原野に隠すことにしたが、隠し場所の発覚を恐れて、運搬役の使用人を次々と橋上で殺害、神田川に投げ捨てた。行きには見えた使用人の姿が帰りには見えない。橋はいつしか姿見ずの橋と呼ばれるようになったという。また、九郎にはまもなく因果が祟り、彼の愛娘が婚礼を前に神田川に入水、絶命したとする伝承もある。
 この橋の名が淀橋となったのは江戸初期のこと。伝承を伝え聞いた三代将軍家光がこれを不吉として改名。当時、界隈に発達した水車場の風情が大阪の淀川の水車場を想わせるとして、淀橋と命名したという。
 だが、橋の名が改まっても人々の心から不吉の念は去らずこ婚姻の際、新婦はこの橋を避けて通るという風習がその後も長く受け継がれた。

 なんていう、不穏なアレに触れると、なぜか心が落ち着く中年。甚だ意味不明。

 他にも『淀橋』の由来にはいろいろあるみたい。
『余戸橋、四戸橋説』『四所橋説』
 「余戸」とか「四」とか、なんとも言えませんな。

写真を見たい方は、続きを読んでちょんまげ↓

新宿くんだりの味な家屋(木造編)

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