田んぼの件で気掛かりがあり、なんとなくどよーーんとしてます。
 おまけに、いつも通りぐにゃーーとしてるし、どよーーん、で、ぐにゃーーん、です。

 あーーめんどくせえなーー。
 という、一日の感想が、頭にとりついて離れません。
 あーーめんどくせえなーー。
 と、思うコトばかりで、そー思ってしまうワタス自身が病気なんじゃないだろうか、と思います。
 めんどくさい病。
 そんなにめんどくせーめんどくせーと思って、ほんとにそんなにめんどくせーコトばかりなのか?。 めんどくせーという思いに捕われて、あーー(捕われているコト自体が)煩わしーめんどくせーというのもあるし、本当にしょうもないワタスだなーと思います。
 じゃー何がめんどくさくないかというと、そこいらをうろついたり、中古品を見たり、なんか余計なコトを考えたりとか・・・。いざ並べてみると、なんかどれもしょーもないコトばっかりで、どうもワタスは、しょうもないコト以外のコトをするのがめんどくせーと思ってるみたいで、そういう風にどんどん整理してみると、やはりワタスは紛れもなくしょうもない人間なんだなあ、という結論に達してしまうのです。

 世の中的に有益とされているコトを、「一応有益っぽいかな」と感じている、その自分は、本当に自分なのか、本当に自分が感じているコトなのか、そう感じているのは、結局、自分の中の他人じゃないのか?という気持ち悪さが、つきまとうのです。
 それで、いろいろとめんどくさくて、どんどん無益で、無意味なアレに、喜びを感じることの方に、目が向いてしまうのだけれど、どうせそんなコトをしていても、自分の中の他人のモノと感じられる感覚から、ちょっとだけ(比較的)、自分の中の他人のモノと感じられないような感覚、に、微妙に触れられたかな?と思ったり、気のせいがしたりするだけで、・・・結局、自分なんてのはいなくて、他人の寄せ集めで、出来ているのです。でも、そういう他人の寄せ集めのことを、「自分」と呼ぶことになっているのです。言葉の世界では。 「自分」とは、言葉というものの便宜性を説明するような言葉、だと思います。でも、とりあえず、日記は、言葉で、書くしか、ないので、便宜的にならざるをえないのです。

 ・・・「もーー眠い」とか「明日は田んぼ会議だからな」とか、他人の寄せ集めである自分が、他人の寄せ集めのクセに、さも自分の感覚のように、申しておりますので、もー寝ることにします。