杉並区hノ内


オストアレ(ジイシキカジョウ)

 がっつり田んぼデー。
 昨日よりマシかと思いきや、夕方になって田んぼ爆発。ぶつくさいいながら人の荒れ地を耕す。これが何かの役に立つのかな? 立つといいですね(空気に向かって)。そして、エラくなったり、お金が儲かるといいでしょうねえ(空気に向かって)。
 田んぼだと思って耕してたのが、よく見ると下水工事だった、そんな気分。
 
 探していた物好き向きの品が手に入る。結構長い時間探していたものが二つ、偶然同じ日にワタスのところにやってきた。こんなアレな日に、不思議。帰宅後、聴いてみると、まーーーそんなに探さなくてもよかったじゃん、というタイプのアレだった平たく言うと。空気に向かってぶつぶつ言っていた気分を引きずってるせいか、あんまり集中出来ず。ぱっと聴いて、ぱっとしまう。

 そのあと、アレのことを考える。
 アレが今後、どーなって、その結果、どーーーなるのかを考える。
 ハロー氏と同様、様子見だ。どーなろうが知ったことか。
 これは、アレのまわりに群がる、アレと自分は違うというコトだ。

 「私のコトが、他人に分られてたまるか」
 と、いうのは、
 「私のコトを、分って欲しい」
 というコトの、裏返しなのだろうか。「裏返し」ってややこしいな。表裏一体というか、反語なんちゃらというか、紙一重というか、つまり、内実はほとんど一緒というか。
 気付かないうちに、なにか「私のコトが、他人に分られてたまるか」というようなコトをぼんやり思っている自分を見つけるコトがある。小さい頃から。これが、「分って欲しい」ということ、に、もし、近いアレだとしたら、我ながら、気持ち悪いなあと、ぎょっとする。
 だいたい、私が、私自身のコトがさっぱり分らない、というのに、人に分られて、たまるか、という、コトなのかもしれない。
 私のコトは、私が分ってないだけで、人からは、結構分かりやすいのかも、知れない。

 いろんな種類の人が、私のコトをみて、分ったとか、分らないとか、どーでもイイとか、いろいろ思うだろう。あるいは、特に何も、思わないだろう。
 だから、いろんな種類の、人と、ネットで知り合い、向かい合うと、いろんな種類の、自分と、向き合うことに、なる。
 その人の、(仮に)人格と呼ばれているものの、向こうに、必ず、その人の、瞳に映る、自分が、いて、こっちを、不思議そうに、見つめていたり、泣いていたり、笑っていたり、にやにやと薄ら笑いを、浮かべていたり、する。

 感じたり考えたりしているのが、自分(とか呼ばれてるアレ)である以上、世界は、鏡に映った、自分を、眺めているような、アレかもしれない。鏡ばりの部屋に映ったいろんな自分を差して、世界、とか、言ったりしてるのか? その鏡の仕組みから、アレするために、アレが欲しいなあとか、知恵が欲しいなあ、とか、いろいろもがく。もがく余裕のある人は、とてももがく場合が多い。もがく余裕がなくても、もがく人もいる。

 もがいている人を見るのは、楽しい。
 さて、もがいてるかな? と、真夜中に、人の日記を、覗きにいく。
 もがいている人の瞳に映る、私の姿はどんなだろうと、人の日記を読みにいく。
 だいたい、もがいている人の瞳にうつる私は、もがいている。(と、思う)



 しかし、「自分なんてなくて、他人の寄せ集め」の場合、鏡の部屋の中心はからっぽなんだけど、その時、なにが映るんですかねー。自意識過剰って、どんどん過剰を突き詰めると、いつか、自分が無くなったりするんですかねー。ご存知の方は、教えてくれたり、ご自分の日記に書いてみたりしてください。