筒のメタ花見



 はれる。
 田んぼ会議。よる。いろいろ立て込む。
 帰投。パンとコーヒー用のミルクなど買いもとめる。
 サッカーを観て入浴したら、もうアレな時間だったというアレ。
 
 リストお待ちを。タモはんのは買わなくてよいと思いますダ。>Fかいちょう
 47はんの「鍋ならあるもんナっ」っていうのがおかしかった。mnレコとのだじゃれだろうか。
 おっかねえ人というのは、やはり勝手な先入観だったのだろうか。
 2回ほど、47はんがデカいチューリップ帽を目深にかぶって、
 いかにも没入した様子で、ピアノに向かう御姿を拝んだときのアレが、未だにアレなのであろう。
  
 さて、桜なのであるが、
 今日も昼飯に向かう道すがら、ピークに向けて、ちゃくちゃくと盛り上げてきているご様子。
 田んぼのコトでいろいろアレもあり、桜を感じている自分を外から眺めるコトは出来なかった。
 桜と同時に、桜を眺める自分をも眺める。
 これを暫定的に、『メタ花見』と命名してみた。
  
 それにしても花というのは植物の性器であるわけで、性器見などと称して
 お祭りのごとくもりもりと咲き誇る夥しい数の性器群の下にゴザなんぞひろげて、
 のんきに酒なんぞ飲んでどんちゃんさわぎをしたりするわけである。
 生性器などと称して、あーだこーだいいつつ厳選した器にナントカ流などとのたまいながら
 性器をぶっさしてはみんなで眺めてみたりして、お喜びになるわけである。
 なかなか、おもしれえもんナっ。
(最後だけ無駄に47はんふう)
 
 それにしても、パンを買うのはバカバカしい。まるでエサである。
 ワタスという筒を通すためだけに小銭を落とす。
(だから、できるだけ、小銭は歯っかけさんに受け取って欲しい。)
 「筒としての人間」といえば、ジャイアント馬場の7inchを聴きながら、どこかの物好きが
 「こうして聴いていると、人間というのがまるで大きな筒である、というふうに思えますなー」
 などと、鋭いような、のんきなような感想を述べていたコトを思い出す。

 というワケで、そろそろ今日も筒がネります。