かいたい




 塹壕だと思って勢いよく飛び込んだら、
 そこは、平日せっせと掘っていたボケツだった中年です。
 とりあえず穴に入って、安心中年。
 今回はデカい塹壕(ボケツ)。
 くもりときどきあめ。雨のあとすごい湿気。アホだなー!と笑けた。
  
 ペイヌンせんせいの、ペイヌン龍バスにまた噴く。
 やさしさと才能が、顔ににじみ出ていると思う。
 そしてローズせんせいのリードボーカル風写真に、瞬殺。
 また見事にウデの長い写真で、うつくしさもひときわアレなのである。
 ローズせんせいがノースリーブをお召しになるのは、
 おんなの本能みたいなアレなのでしょうか?



 
 まいまいゆうびんのコトを考えながら、多少くるつく。
 うたかくんのまいまいゆうびんの神性を汚さないように、
 うたかくんのまいまいゆうびんとは違う、ワタスだけのまいまいゆうびんを想起する、
 (たぶんこの人は「まいまいゆうびん」ではないので、いらぬアレだとは思うんだけど)
 長谷直美 → えんか → ギスモンチのファンク 迷走して終了。
 いつものフヌケ的ニューミュージックにならなかったのは、
 普段からうたかくんの日記で、アイドルたちのうたかくんへの仕打ちのコトを、
 読んでるタメだろうか? 
 
 ワタスはようがくというのも聴くんですけど、えいごがさっぱり分らないので、
 どんな内容の歌詞なのか、ぜんぜん分りません。
 「ようがくの歌詞の意味を知ったら、陳腐でショックだった」
 などという談話を聞くたび、ワタスは逆だなあと思う。
 むしろ、意外とイイ話だったりおもしろい歌詞だったと、
 あとになって知った時の方が確実にショックだ、というコトを、
 柿ピーを食べながら徒然に考えていた。
 
 言葉以前の、「机の上のコップ」という風景は、
 全部つながった、未分化なひとかたまりの風景なんだけど、
 (それがどういうものか分らない。動物にはそういうふうに知覚されているのだろうか。
 ワタスたちが、ただコップと呼んでいるものに、ワタスたちがまだ知らない100万とおりの呼び方がある、という風にイメージした方が、話は早いだろうか。)
 言葉が、「机」と「コップ」と、風景(世界)を区切って、私たちに知覚させる。
 だから、言葉を知れば知るほど、世界や風景を微細に区切り、
 多彩なものとして、知覚することが出来る。
 先輩のハンバーガー的に言えば、
 キゴーロンやらなんちゃらやら、そういうふうにガッコーで教わったので、
 そういう西洋的な考え方に、慣らされているのだけれど、
 愛がなんちゃら、死がなんちゃら、という歌が、ほとんど陳腐に聴こえるのは、
 愛や死という言葉が、
 ほかの言葉のような、世界を区切るようなはたらきを、ほとんどしないのに、
 そのコトに無自覚に、愛や死という言葉が、用いられるからだろうか? などと考えていた。
 柿ピーを食いながら。
 
 とうぜん、日本の言霊だとか、そういうアレも、
 言葉が、世界を区切るとか、そういうアレとは無縁のアレなのだろう。 
 西洋的な、精密さや精度重視のアレとは、多分関係なく、
 ワタスたちと世界の間に、在る。
 たとえば、
 精巣、というと西洋的で。
 きんたま、というのは言霊的なのだろうか。
 精巣、という言葉は、世界や風景を、区切るだけの感じがするけど、
 きんたま、というと、区切るだけじゃない感じもする。
 愛とか、死だとか、きんたま、だとか、
 世界や風景を、区切るだけの、アレだと思って、
 無自覚に、歌詞に入れると、陳腐になる、ということなのだろうか?
 柿ピーを食い終わりました。