蓮池透さんの飽きのこないカセット




 帰宅して、
 歯っかけさんの聖体パンを食って、
 ぐにゃっとしたまま、先輩のアレに出てきた痛郎関連のサイトなど
 だらだら見ていたら、真夜中になっていて、うーーんとうなってしまった。
 工場が爆発しねえかな、というのは、
 ワタスもむかし、田んぼに隕石落ちねえかな、と思っていたので、
 ニヤニヤする。
 靴下やパンツに穴があいたり、スリきれるらしい。同感だ。
 そういえば前に先輩は、愛用の穴のあいた座椅子に関する、
 画像付きの日記を書いてたと思う。
 ワタスのイスにも穴があいているのだが、
 なにかと穴があくというのは、貧しいなあとみじめな気分にさせられる。
 だけど、穴があいたって、別にどうだっていいのだ。
 テキトーな気分で、どんどんすさんでいくのだ。
 すさむ(すさぶ)って、「荒む」も、手遊みとかの「遊む」も、
 もともと同じ語源みたいなのが面白いなーと思った。
 『勢いの赴くままになる』『はなはだしくなる』『慰みにする』『心に留めて愛する』
 だそーです。おもしろいですなあ。・・・心に留めて愛する??
 



 マイミク「ちんこBANG!!」さんのマイミク「うんこ」さん云々、というのに
 なぜか、しみじみした。
 ファンタスティック!
 ともかく、穴があいたり、パンツがすりきれたり、
 マイミク「ちんこBANG!!」さんのマイミク「うんこ」さんだったり、
 この垂れ流しの無常感と、その向こうに透けて見える、
 他者や日々の営みへの、あたたかく、穏やかな眼差しが、
 先輩の日記の魅力の核心だと思う。
 
 うたかくんは大丈夫なんだろうか。
 うたかくんが書いたやつを読みたいし、
 アイドルのコトはよく分らないのだけれども、
 きっと、まだまだ書ききれてないコト、
 書き尽くせないアレが沢山あるんじゃないかと、
 ワタスはいいたい。




 便所で紙のイヤダイアリーを読む。
 画像は傑作「蓮池透さんの飽きのこないカセット」*1より。
 こんなふうに始まるロック小説があったら、傑作に違いないと思う。
 ロック小説とかテケトーに名付けたけど、それがどんなアレか知らんけれども。
 イヤちゃんには、ロック小説「蓮池透さんの飽きのこないカセット」を
 いつの日か執筆していただきたい。


産経新聞1月25日朝刊
【家族】第1部 逆境にあって(3)
イーグルスが繋いだ兄と弟』



(写真)六畳一間、銭湯…。兄と弟が暮らしたアパートは、今も変わらない=東京都中野区

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 そのころ、東京都中野区の木造アパートに住む二人には音楽があった。兄、蓮池透
21歳、弟の薫は18歳である。
 「ドゥービーブラザーズは最高だよ」
 兄がこう言えば、弟は力を込める。
 「これからはサザン・ロックだよ。特にレーナード・スキナードの『フリー・バード』
がいいね」
 時代はロックの黄金期。今では”伝説”として語られるバンドが、魂を揺さぶる刺激
的な新作を次々に発表していた。レコードが高価で、音楽関係の情報も今よりずっと少
なかった。
 兄弟は好みのバンドの新譜が出るたびに買い求め、レコードがすり減るほど何度も聴
いた。特に弟は、米国南部の骨太で力強い音楽に傾倒していた。
 透は東京理科大学4年、薫は中央大学1年。故郷の柏崎市新潟県)を出て、六畳一間
の部屋に同居していた。
 風呂はなかった。ベッドも一つしかない。兄がベッドで、弟は近くに布団を敷いて寝
た。
 「一緒に食事を作って食べたり、銭湯に行ったりした。仲のいい兄弟だった」
 今、48歳になった兄、透は昭和51(1976)年春からの一年間だけのアパート暮らしを
こう振り返る。
 二人に「ロック」という共通の言葉があった時代は、あっという間に過ぎた。二年後
の昭和53年7月、大学3年の弟は奥土祐木子とともに、柏崎市の海岸で突然、姿を消した。
 「何やってんだ、あのばか」
 兄は、怒りすら覚えた。事件とは、およそ思えなかったのである。しかし、弟が日本
のどこかで暮らしているという、祈りにも似た気持ちもあった。
 お告げがよく当たると評判の、祈祷師にみてもらった。
 「死んではいないが、そう簡単には会えない」
 こう、告げられた。
 神隠しだろうか。絶望的な気持ちになった。55年に「アベック三組ナゾの蒸発」とい
う記事(産経新聞)が掲載されたが、北朝鮮の関与は全く考えられなかったという。
 62年、大韓航空機爆破事件が起きた。この時、実行犯に日本語を教えたとされる李恩
恵が祐木子ではないかと週刊誌が報じた。興味本位の報道が、両親を苦しめた。透も衰
弱する親の姿に心を痛める日々だった。
 しかし、それ以上につらい時間が待っていた。
 「拉致問題への国民の関心が薄れたあとの『空白の10年』を過ごしたことです」
 昭和60年代から平成に入ってからの日々を、透はこう振り返る。署名集めは横田めぐ
みさんの地元の新潟市では反応がいい。しかし、柏崎市ではいまひとつだった。東京・
銀座の数寄屋橋でも行ったが、人は大勢いるのに、だれも足を止めてくれなかった。
 「自殺行為でした。変な人を見るような目で見られた」
 ようやく百万人以上の署名を集めて政府に提出したが、政府は動いてくれない。無力
感、脱力感が襲った。
 しかし昨年9月には事態は一変し、翌10月に弟が北朝鮮から一時帰国することになった。
 兄は、決意していた。
 (弟を絶対に北朝鮮に返さない。真剣勝負の闘いだ)
 予想はしていたが、24年ぶりに帰国した弟の言動にうろたえた。羽田空港からバスで
向かい、宿泊先となった東京都内のホテルで弟は言った。
 「北朝鮮は、日本に侵略された被害者だ」
 父の秀量(75)や母のハツイ(70)は、息子の帰国を心底喜んでいる様子だった。だ
が兄の心は複雑だった。鋭い目つき。相手を威嚇するような話し方。心の中で「だめだ、
だめだ」と繰り返しつぶやいた。
 「こんな弟はいらない」と思ったことさえあった。
 「むこう(北朝鮮)での暮らしはどうだった?」
 「帰ってきた5人以外にも、拉致された人がいるのか」
 兄は問いかけた。会話はかみ合わない。互いに激高し、言い争うようになった。
 そんな兄弟を見て、母が悲しそうな表情で言った。
 「せっかく会えたのに、けんかなんて…」
 「死んでやる」
 ついに、こう泣き叫んだ。
 「お母さんごめんなさい」
 弟は謝った。しかし兄は、その言葉にさえ違和感を覚えた。かつての呼び方は「おふ
くろ」だった。「お母さん」という言い方に、何かとってつけたような嫌な感じがした。
 「こいつは、一体だれなんだろう」
 柏崎の実家や、出かけた先の旅館の同じ部屋で寝ていても、弟だとは思えなかった。
 そんなある夜、弟がしみじみと話した。
 「むこうでは、イーグルスの『デスペラード』を心の中で歌っていたんだ」
 デスペラードは哀愁を帯びたバラードだ。そのせつない調べを思ったとき、兄には、
弟たちが北朝鮮で過ごしたつらい日々が自然に理解できた。
 「大変だったんだろうな」
 弟の言葉を思い返し、枕をぬらした。弟の気持ちが理解できた瞬間だった。
 貝のように固く心を閉ざしていた弟だったが、次第に日本人としての自覚を取り戻し
た。
 昨年12月、被害者5人が新潟で再会したときのことだ。
 「心配事があったら、うちの兄貴に相談してください」
 弟は、かたわらの地村保志(47)にそう語りかけた。兄弟の信頼感がよみがえってい
た。

=敬称略
(櫛田寿宏)



(2003/1/25 産経新聞朝刊連載「家族」第3回記事)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Euro/1880/030125_kazoku3.txt

*1:イヤダ日記 2006.4.11「泣きの雨」