しょぼ中年シャフリヤ〜ル




 爆晴れ死ぬ。
 凶暴な陽射しに溶けだす田んぼ。
 午後。絶え間なくふりそそぐ熱線に晒され、宇宙公園がなにかに変容する。
 汽車は逆回転を始め、老人将棋の形勢は逆転した。
 逆上した人々は、あらぬことを口々につぶやきながら、
 噴水のまわりに集い、肌を露に緑の傾斜に寝転んだ。

 アホがやってきて鐘を鳴らしまくる。
 どんなに見張っていても、隙をみて、どこからともなくやってきて鳴らしまくる。
 つかまえてもつかまえても、またやってきて鳴らしまくる。
 そんな夢を見た。
 頭の中で鐘の音が鳴り響いていた。
 あの鐘を鳴らすのはアホだ。*1



 「アホがやってきて鐘を鳴らしまくる」
 クン先生のシモナガレ日記を読んで思ったのは、
 なぜ、「そんな夢をみた」と書いてしまうのか、というコトだった。
 (知らない)他人の日記なんて、幻のようなものだから。
 そこに書いてあるコトが、現実だろうと、夢の話だろうと、
 どちらにせよ、ぼくからは、ほぼ等距離のコトに思える。
 だから、夢の話と断らなくていいのに、そうするクン先生は、
 「あの鐘を鳴らすのはアホだ。」という考察が重要だったか、
 もともと、とてもイイ人なのだろう。

 クン先生が「夢である」と書いてくれたおかげで、
 ぼくにとって、人の日記に書いてあるコトは、
 夢でも現実でも、結局どっちだっていいんだと、気付いた。

(そういえば、イヤちゃんも夢の話を書くことがある。
 森でシューマイを投げるやつとか、
 カツカレーがうまそうな、湖のほとりの食堂のやつとか。
 そういえば、やはり「夢である」と断わりがあって、
 ちゃんと考察も付く。)

 ぼくの読む他人の日記は、お知り合いのを除いて、ぜんぶ幻だ。
 どうせ、お伽話の語り手を探しに、毎夜さまよう、ひとり千夜一夜物語なのだ。
 お知り合いの日記だって、幻みたいに感じるコトがあるぜ。
 人の日記が、現実か夢か幻かうそっぱちかだなんて、どうだってイイことだ。
 それを読んで、自分が何を感じたのか、思ったのか、
 「その思いだけは現実だ」なんて都合のイイことも言えないけど、
 幻のような自分の、幻のような知覚を信じて
 ぎりぎりがんばって書いてみたり、諦めてテケトーに書いてみたりするしか、
 ないと思うのdeath☆

 という、ややこしい夢をみました。おしまい。
 



*1:クン先生のシモナガレ日記より