侘ストリート




 夕方。
 民生喫茶にてアイスコーヒーを飲みながら「昭和二十年東京地図」(ちくま文庫)を読む。昭和二十年つったって、別に夢も希望もあるだろうに、東京のいろんな地所をうす暗いトーンで描いている。明るくもドン暗くもない、ずっとうす暗い調子で淡々とした話がつづく。
 民生喫茶だからうるさいのはしょうがないけど、隣に座った二人の若いサラリーマンがやけに快活に語り合っていて、人生設計がどうのとか、人生カレンダーがどうとか、終始実に建設的な充実した内容の話が聞こえてきて、ワタスはなんだか死にたい気分になった。ふとふりかえれば計画もへったくれもないまま半生を生きてきたからだ。うんこ人間である。そういえば前に某名人が自分のことを「ウンコマン」などと書いていて、その時は、ほえーと思ったんだけど、今、自分で「うんこ人間」などと日記に書いていて妙にしっくりきて居心地がイイ。不思議なほどしっくりくる。不思議なほどうんこ人間だ。
 中学の初めの頃、よく学校をさぼって、死んだじいさんの本棚のなんちゃら文学全集の中からつまんなそうなの(多喜二の「蟹なんちゃら」とか野間宏の「なんちゃらな絵」とか、プロレタリヤなんちゃら)を選んで、じっと布団の中で読んでいたコトを最近よく思い出す。アタスはあの頃からすでにうんこ人間だったのかも知れないな、と思うからだ。その頃、トモダチに源ちゃんの本とかを教えてもらって読んでたから、死んだじいさんの本棚にあるやつは文学のふりをしてるだけのやつだと、漠然と思っていたわけだけど、布団の中でおもしろくない暗い話をずぶずぶと読み続ける快感が、のちのワタスのうんこ人間を決定づけてしまったのだろうか。でもあの時、まさか自分がおっさんになってうんこ的なものにひきつけられるうんこ人間になってしまうとは予想できなかったな。
 写真はたぶん文花あたりだと思うんだけど、文花なんて名前のわりにクソ侘びしい夕暮れだなあ、などと写真を整理していて思ったりした。きっと何ヶ月か何年か先、無性になつかしくなってまた訪れたくなるような気がする。それか、遠い昔にこういう侘びしい通りを歩いたぼんやりとした感傷をつつかれているのかも知れない。若者が人生カレンダーなどと有意義なコトを語っている間にも、ワタスはほんとうにうんこ人間だなあと思う。
 イヤちんの更新が多くて、ありがたや。
 よる。ヘアカツの作業などする。鰤での1コーラスで切ったりするのに慣れてしまって、フルで録ったり、補正してる最中にどんどん飽きる。これもうんこ人間ならではだ。