いろいろメモ

表と裏、外と内とを巧みに使い分ける日本の村社会的構造の中では、公と私とは使い分けられるべきものとして、つまり使い分け方を知っている限りにおいて共存し、また共になければならぬものとして認識されていた。だからこそ、通だ粋だの世界が、実用の世界に匹敵するものとして成立しえたのである。

寺は戦時には直ちに小さな城として砦の役を果たし、災害時の収容所ともなることから、街の周縁の境界域に置かれた。寺町があるところは街の境目だったといってよい。

縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのためにそこには墓地をつくったり、石棒などを立てて神様を祀る聖地を設けた」
「そういう記憶が失われた後の時代になっても、まったく同じ場所に、神社や寺がつくられたから、埋め立てが進んで、海が深く入り込んでいた入り江がそこにあったことが見えなくなってしまっても、……現代の東京は地形の変化の中に霊的な力の働きを敏感に察知していた縄文人の思考から、いまだに直接的な影響を受け続けているのである」

マップで薄茶色に塗られた洪積層と、青く塗られた沖積層(山の手の低地や下町)の対比を、中沢は専門の宗教学や人類学・神話学のフィールドに引き入れてこんなふうに特徴づけている。
洪積層 「乾いた土地」・精神的なもの(神)につながる・「乾いた文化・社会」=弥生的
沖積層 「湿った土地」・物質や肉体につながる・水の世界=死の匂い、「湿った文化・社会」=縄文的

アースダイバー関連

牛馬の屠殺はその歴史的なイメージから、●●階級の人々が専ら行ってきたという解釈がされることが多いが、儀礼における(いわゆる生贄なども含め)祝いをあらわす「祝(はふり)」という語句と、「屠る(ほふる)、屠り(ほふり)」という語句は語源が同じであり、もともとは犠牲を供して穢れ祓い清める役割の人物が行っていた。つまり神職及びそれに近い役割の人々が行っていたと思われる。

「はふり」と「ほふり