五月の日射し

 宮本先生の作品について、うまく書けないんだけれど、少しずつなにかしら、覚えとして、書きつづっていこうと思う。思ったこと、思い出したこと、頭をよぎったこと。つれづれと。(そもそも、僕は音楽や演奏の知識がないので、寝言みたいなコトしか書けませんが。)『匿名アマチュアのクソオカマ野郎』日記の一環として。

 『五月の日射し』を最初に聴いた時、光や温度、なにかの気配や予感のようなものが、すぐそこに流れてるように感じた。アシッドな感触。風合いが強調された響きの向こうに、よせてはかえす、光のさざなみのような。刻々とうつろう光の陰影のような。
 表現の『再現性』というコトを思い出した。
 (よくいわれる、実際の演奏と録音されたモノの間のそれ、とは別の)
 とくに、近代までの文学や視覚芸術が、モチーフ(時代によってそれは「自然」であったり「宗教」であったり「内面」であったり)を再現するために、いろいろ方法を模索してきたというような。
 たとえば、時間とともにうつろう光を一枚のタブローに定着しようとした印象派の画家たちは、(写真の登場に呼応するように)景色(光)というのが人間の眼にどのように見えているかということを探究し、やはり絵画の『再現性』を模索していた。
 音楽にも、文学や視覚芸術でいう『再現性』のようなものが、やはりあるのだろうか?
 音楽の再現性というのは、どういうものか分らないけれど、宮本さんの音楽を聴いていて感じる、光や色彩や温度、なにかの気配のようなものは、なにかを再現しているように感じる。また他にはない優れた再現性のようなものを強く感じる。



 それから、思うのが
 視聴している実際の時間と平行して存在する、ゆらぎ、自在に伸縮する、音楽の中の時間のようなもの。
 文学でいう、物語の時間進行、叙述の速度というか。
 文学や視覚表現と同様に、音楽にも、そこに内在する空間や時間(時空間)があることを、ふだん僕は忘れているけど、宮本さんの音楽は、そういうことを強く意識させるところがあるなあと思う。
  源ちゃんが、むかし「小説の中の時間(速度)」の話を書いていたのを思い出した。
 (文字数に対しての)物語りがすすんでいく速度(圧縮率)。
 実際に、(書き手によって)書かれた速度。(読者による)それを読む速度。。
 一つの作品が観賞される中で、そこに同時に存在する、いろんな時間や速度の話だったと思う。 

 音楽は、文字や視覚表現にくらべて、時間や速度と密接に関係してるように思うけど、
 そういえば、僕は、ふだん音楽を聴いていて、テンポやリズムではない、もっとなにか抽象的な時間や速度(先の源ちゃんの「小説の中の時間」みたいな)を、意識させられるようなコトがあまりなあと思う。
 意識させられるまで集中するまえに、だいたい僕が飽きてしまうのだけれど。。
 宮本さんの作品は、ポップでチャーミングなので、ぜんぜん飽きないなあと思う。